宮沢りえさんといえば、映画や舞台、CMと、多方面で活躍している実力派女優ですよね!
プライベートでは元V6の森田剛さんと結婚し、幸せな家庭を築いています。
そんな宮沢りえさんといえば、「りえママ」こと実の母親との問題が有名でしたよね。
そこで今回は、宮沢りえさんの母の毒親エピソード、やばすぎる伝説や父親についても調査しました!
宮沢りえ母の毒親エピソードまとめ!

宮沢りえさんの母・宮澤光子さんは、若い頃六本木でホステスをしていました。
そのときに宮沢りえさんの父であるオランダ人と交際し、宮沢りえさんを授かります。

まだ生まれたての赤ちゃんだった宮沢りえさんを父(宮沢りえさんの祖父)に預け、夫とともにオランダに渡ったそうです。
しかし、夫の家族とうまくいかずに離婚することに。
そんな光子さんが過去に行ってきた毒親エピソードについて、みていきましょう!
1.本人の意思なく芸能界デビュー

東京の大泉学園近くにアパートを借り、整った容姿をしていた宮沢りえさんを友人の勧めもあってモデルにさせます。
母はホステスや保険の外交員を続け、家計をやりくりしながら宮沢りえさんをプロデュースしていきます。
「それまで光子さんは、りえを抱えて、保険の外交の仕事をしていた言われてますが、銀座のあまり有名ではないクラブのホステスもやっていたんです。その関係で知り合ったかどうかは定かではありませんが、六本木の高級寿司屋の旦那と深い関係だったんです。その店に幼いりえをよく連れていった。そこは、芸能界の幹部連が通う店。たちまち幹部たちの目に留まったんです」
FLASHより引用
そして宮沢りえさんはスカウトされ、”芸能界のドン”と呼ばれる人物がケツモチをするプロダクションに入ります。
すぐにブレイクした宮沢りえさんですが、なんと光子さんの判断で独立してしまったのです。
そのころから、光子さんは豪腕マネジャーとして業界内で恐れられていました。
2.10代でヘアヌード

まだ10代の宮沢りえさんを”ふんどしカレンダー”に起用し、篠山紀信さん撮影の写真集『Santa Fe』を発売します。
まだ17歳の宮沢りえさんがヘアヌード写真集を発売するのは、どのような心境だったのでしょうか。
しかし結果的に、写真集は150万部のベストセラーとなり、一気に知名度を高めたのです。
宮沢りえの「Santa Fe」が出た頃、
— まゆー (@degu_mayu) December 3, 2020
「ハーフだし、りえママに似て太りやすい体質なので綺麗なうちに…」などと言ってた記憶があるが、その後激やせしたり、今も痩せてますよね
健康的で、類を見ないほど「エロさ」皆無のおヌードでした
本日誕生日の #篠山紀信 曰く「目が眩むほど美しい」とのこと pic.twitter.com/mWy84ZdLyD
光子さんの操り人形のように、仕事をこなしていった宮沢りえさん。
まるで幼少期に離れていた部分を埋め合わせるかのように、お互い依存し合う関係だったのです。
実際、宮沢りえさんは光子さんが亡くなるまで、決して悪く言うことはなかったそうです。
3.貴乃花との婚約解消

しかし、たった2ヵ月後に 「人生最高のパートナーにはなれなかった」 と婚約を解消。
歌手の美川憲一さんはこの婚約解消のキーマンとなったということで、仰天告白をしています。
美川憲一さんは、光子さんに頼まれて「婚約をぶっ壊した」と振り返っています。
「りえに電話をしてあなた本当にお嫁に行きたいの?と聞いたら“行きたい”と。でもあなたは背負っているものが多い。あなたは母一人子一人。お母さんがすごい犠牲になってきている。おかみさんになったらどうするの?ずっと(母の)面倒見なきゃいけないのよ」
FLASHより引用
そもそも当時19歳の宮沢りえさんが貴乃花と婚約発表したのも、光子さんの策略だと言われていました。
4.枕営業を強要

婚約破棄後、傷心の宮沢りえさんの前に妻子持ちの中村勘三郎が現れます。
この出会いも光子さんが仕組んだことだったそうで、宮沢りえさんと勘三郎さんと光子さんという3人で六本木のバーを訪れているところが目撃されています。
その後、宮沢りえさんは勘三郎さんとの不倫の末、自殺未遂騒動を起こしています。
それから、市川右近さんや市川海老蔵さん、中田英寿さんらと恋仲が噂されましたが、すべて光子さんが許さなかったそうです。
1992年、宮沢りえさんと即席ラーメンのCMで共演したビートたけしさん。
#CMの中のムービースター
— すたみな (@mina_suta84090) November 11, 2024
ビートたけし&宮沢りえ。
エースコック スーパーカップCM#ビートたけし#宮沢りえ pic.twitter.com/BYr8f4oWec
海外ロケでホテルに泊まっていたビートたけしさんですが、突然宮沢りえさんが訪れ、『ママに言われて来た』と言ったのです。
ビートたけしさんは驚きましたが、宮沢りえさんを傷つけないために『早く帰って寝なさい』と諭します。
なんと母親が自ら娘を“枕営業”に行かせるのですから、恐ろしい話ですよね。

やばすぎる伝説や父親についても調査!

光子さんは宮沢りえさんが自分で選んだ相手は決して許さず、不倫だろうがなんだろうが光子さんが選んだ男性と交際させていたそうです。
光子さんはビートたけしさんとの関係も異常に固執し、勘三郎さんとの関係も後押ししています。
これらは、芸能界で宮沢りえさんをセンセーショナルな存在にした、常に注目の的にしたいという思いからでした。
以前は常にマスコミに追いかけられていた宮沢りえさん・光子さんですが、いつしかそれもなくなっていったそうです。
光子さんに売名で使われた芸能人が多すぎて、誰も寄りつかなくなってしまったというのです。
「りえママは自分のできなかった人生を娘のりえにさせて自己投影してたんだと思うわ。美貌があって野心があってお金があってという、なれなかった自分をそのまま娘に強要してたんだろうね。この心の汚さの出てる顔を見ると、りえママは毒親だったと思う。ある程度生きると人生が顔に出るからね」
週刊現代より引用
まるで“一卵性母子”といわれた光子さん。
当時は毒親なんて言葉はなかったのですが、今振り返ってみるととんでもない毒親だったのですね。
宮沢りえさんは実の父であるオランダ人には会ったことがないそうですが、祖父の子供と兄弟のように育てられたといいます。
宮沢りえさんはオランダ人とのハーフなのですが、オランダ名はリー・マムだといいます。
異父兄弟の弟・後藤聡さんは、光子さんの再婚相手であるピアニスト男性との間に誕生しています。
光子さんは弟を出産後すぐに家を出てしまったそうで、それ以来音信不通だといいます。
そんな光子さんですが、肝腫瘍によって65歳の若さで亡くなっています。
光子さんの猛プッシュにより芸能活動をスタートさせた宮沢りえさんですが、若い頃は超絶可愛い!と評判です!

まとめ
今回は、宮沢りえさんの母の毒親エピソード、やばすぎる伝説や父親についても調査しました!
デビュー前からかなりの強烈なエピソードでしたが、自身の娘を芸能界でトップにしたいと必死だったようです。
オランダ人の父とは会ったことがないようですが、異母兄弟が何人かいるみたいですね。
現在は幸せそうな宮沢りえさんなので、今後の活躍も楽しみですね!
最後まで読んでいただきありがとうございました。